“ことば”に引かれてしまうのは、やはり“ことば”に何らかの力が秘められているからだろう。時に人は言の葉には霊力が宿ると信じて崇め、時には漢字から文字を作り出して“ことば”に自分の人生の意義を見出し、時に人は文字によって無限なまでの自己表現を可能にし、また人は自然との一体を重視した。
現在の私たちに古人の軌跡を残してくれたのは文字であり、そのルーツを辿れば“ことば”に行き着く。そして私たちの自己表現の主流ツールもまた文字である。私たちはとても身近にありすぎて存在をあまり重要視してはいないかもしれないが、“ことば”の存在価値は国家の文化遺産に匹敵するほど絶大である。
古人が耳と口だけで情報を伝達していた時代を顧みれば、文字が発明されて女性にも綴ることが流布した日記文学の誕生は、まさにことば史のターニングポイントであった。日記上に自己の内面を吐露し、自己を確立することで生きる意義を見出していた古人も少なくはないだろう。
また人々は短い歌のなかに心の澱を詠んで、目の前にある自然と自分とを重ね合わせて考えることがある。そして俳句に季語があるのも自然のなかに自分を見出し、自己表現するためである。
“ことば”は古来より先人の宝であると思う。時代と共にその姿を変えてはいるが、礎はしっかりと受け継がれている。綴ることで、自己を表現することができるだけでなく自己をコントロールすることもできた時代の人々は、“ことば”には言霊が宿るために重宝していたのかもしれない。現代のように単なる道具として扱ってなどいなかった。
“ことば”には不思議な力が秘められている。そんな魔力を持ったものを私たちは当たり前のように使っているのだから、本来ならば畏怖し慎まなければならないはずである。しかしこれも不易流行の概念に基づいているだけなのかもしれない。万物はそれを維持するためには常に変化し続けていなければならないからだ。
人間がそうであるように“ことば”も絶えず生まれ変わる必要があるのだが、現代の行き過ぎた“ことば”の乱用を容認することはできない。私たちは“ことば”の存在意義や在り方について見直すべき時期に差し掛かっているのだろう。
---------------------
大学時代に考えていたことです。
当時は、きちんと“ことば”と向き合っていたことが分かります。
社会人になってから“ことば”を疎かにしていたなぁと、熱い想いを抱いていた頃の自分に気付かされました。
人々を幸せにも不幸にもできてしまう“ことば”。
凶器としてではなく、幸福を与える術として使いたいものですね。